アボリジニ 進化の鍵を握る人々 前編

BGM演奏
City Operator: Masakatsu Gondo

 

 

テラ・アウストラリス

 赤 道を挟み、日本の反対側にある大陸オーストラリア、日本との時差はほとんど無いが意外に遠い国である。 オーストラリアがヨーロッパ人に発見されるの は、17世紀に入ってだが、その何百年も前からテラ・アウストラリスとして存在が予言されていた。

 テラ・アウストラリスの存在を確信していたスペイン人は、中南米の 支配後、何度も遠征隊を派遣している。 しかし1605年ついにテラ・アウストラリスの発見を断念した。 皮肉なことだが、その直後オランダ人によってテ ラ・アウストラリスは発見される事になる。

 1606年に はヤンスがヨーク岬に到達し、1642年 にはタスマンがタスマニア島とニュージーランドを発見した後、オーストラリア西部・北部の海岸に上陸している。 しかし、交易上の魅力を感じなかった オランダは、探検を継続しなった。

次にオーストラ リアにやってきたのは、キャプテン・クックの愛称で知られるイギリス人で、1770年にはニューサウスウェールズ地域がイギリス領として宣言される。

こうしてヨー ロッパ人に存在が知られるようになったオーストラリアだが、その存在が予言されていたというのは不思議な話だ。 誰も行った事が無いというのに初期 ヨーロッパの地図には大きな手袋の形で、ほぼ現在の位置にテラ・アウストラリスがえがかれている。

しかし、ヨーロッパ人が到達した時にはすでに先住民アボリジ ニが、暮らしていたわけだから他の民族がオーストラリアにやって来ていたと考えてもおかしく無いだろう。 太古の昔、何らかの形でアボリジニに接触し たインド人やアラブ人が交易を通してヨーロッパにオーストラリア大陸の存在を伝えた可能性は十分に考えられる。 というよりも記録に残っていないだけ でオーストラリア大陸の存在は、インドやアラブの商人の間では常識で、知らなかったのはヨーロッパ人だけかもしれない。

事実、すでに17世紀には オーストラリア北部アーネムランドにインドネシアのマカッサル人が海産物を求めて南下してきて、海岸沿いに多くの野営地を築いていた事が知られてい る。 彼らは、ナマコなどの海産物の加工や取引を行って、アボリジニの文化や言語にも多少の影響を与えている。

 

隔絶された大陸

 コアラやカンガルー、カモノハシ等に代 表されるユニークで独特な動物で満ち溢れた大陸オーストラリア。 このオーストラリアに最初の人類が移住してきたのは、今から約7万年も前の更新世代のことである。 このころは最後の氷期であるウルム氷期にあたり海水面は現在よりはる かに低かった。

そのため現在の東南アジア島嶼部分にはスンダランドと呼ばれる広大な陸隗が広がっていた。 一方、オーストラリアはニューギニアと陸続きでサフルランド と呼ばれる大陸であった。

オーストラリアの歴史を解説した物の中には、「オーストラリアへの人類の移住は、氷期に 陸続きとなったアジアから渡ってきた」と解説されているものを多々見かける。 しかし、これは大きな間違いで正しくは、ほぼ陸続きに近い状態と表現す べきである。

これら2つの大陸は海水面が最も低下した今から約2万年前でも、最低80kmほ どの海峡で隔てられていたと考えられている。

この事は、両大陸の間にウォーレス線と呼ばれる明確な動植物相の境界線がある事からも明 らかである。 オーストラリアに有袋類や単孔類など原始的な形態を備えた哺乳類が生きのびているのもこのためだ。 したがってオーストラリアへの人類 の移住も「船」抜きでは考えられないのである。

なんと7万年もの昔、ヨーロッパでは未だネアンデルタール人全盛の時代に船あるいは筏で大海を越えた人々がいたのだ。

7万年もの昔、当時の最先端のテクノロジーを駆使してオーストラリアに移住してきたオーストラリア先住民とはどのような人々だろうか。

 

オーストラリア先住民

オーストラリアの先住民はアボリジニと呼ばれ、タスマニア人、オーストラリア本土の先住諸民族、ティウィ人(北オーストラリアのバサー スト島とメルヴィル島)、トレス海峡諸島民から構成される。 広義でのアボリジニは、これら先住民すべてを含むが、現在では単にアボリジニと表現される場合はオーストラリア本土の先住諸民族をさすと考えてよいだろう。

アボリジニはテクノロジー万能の現代社会とは完全に異なる、おそらく人類最古の高度な固 有文化を持っている。 世界のすべての大陸中、オーストラリアだけは、自力で狩猟採集文化から農耕・牧畜文化への移行がおこらなかった。 この点でア ボリジニの文化は特異であるが、決して劣っているというわけではない。

アボリジニの文化は非常に精神性の高い文化で、深い自然認識のもと独特の精霊信仰や世界 観を発達させてきた。

特にアボリジニの芸術的センスは、現在では高い評価を得ている。 

中でもディジゥリドゥーと呼ばれる独特の重低音を生み出す楽器や鮮やかに彩色された絵画 などが知られている。 アボリジナルアートとして売られている物には多くの贋物が出回るほどの大人気で、きっとオーストラリア旅行で贋物をつかまされ た人もたくさんいることだろう。 ブーメランとして知られる独特な狩猟道具もアボリジニの偉大な発明の一つだ。

又、アボリジニは非常に古くから聖地の岩山や洞窟に壁画を残してきた事が知られている。

とかく古い壁画というと、ヨーロッパのラスコーやアルタミラにクロマニヨン人が残した物が引き合いに出され、精神性の高さを評価される事が多い。 しか し、クロマニオン人以上に古い時代から壁画を書き続けてきたアボリジニの精神性の高さはほとんど知られていない。 一般的に世界最古の壁画としては、 南フランスのショーベ洞窟で発見された32000年前の物や200011月に発表されたばかりの北イタリアの洞窟で発見された32000年〜36500年前の物が知られている。

しかしオーストラリアのカカドゥ国立公園内の壁画の一部は、35000年以上も前の物と考えられていて、世界最古の壁画の部類に入る。 つまり芸術と言う抽象概念を理解する人間性の特徴は、少なくともオーストラリアでは独 自に発達したのだ。 それどころかオーストラリアこそ人間性発祥の地である可能性も十分にある。

1960年代までオーストラリア国民としてさえ認められていなかったアボリジニだが、現在はオーストラリア政府の先住民保護と保証の政策が進んでいる。

しかしオーストラリアのこのような政策の中、堕落した生活を送っているアボリジニたちが 多数いるのも事実である。 もちろん先住民の権利を保障することは重要な政策である事には間違いないのだが、過去に対する保証に対して現代に生きる 人々が恩恵を預かった場合、怠惰になる事は多々あることでアメリカなどの国々が同じジレンマを抱えている。

アボリジニというと肌の色が黒いオーストラリアの先住民というイメージ以外、明確な特徴 を思い浮かべられる人は少ないと思う。 だがアボリジニは、肌が黒いという以外は近隣のメラネシア人やアフリカの黒人とはまったく似ていない。 それ どころか他のどの人種とも似ていない。 意外かも知れないが、アボリジニの多く、特に子供は金髪なのである。 

 一般的に分類上もアボリジニは、オーストラロイドとして他の人種とは区別される事が多い。 言語学的にも、アボリジニは周辺のオーストロネシア語族や オーストロアジア語族とは完全に異なる。

 人類学上アボリジニの存在は、大きな謎に包まれていて、いつ頃どのような形で、どこからオーストラリア に渡ってきたのか、いまだにはっきりした事はわかっていない。

 一部の学者の中には、ス リランカのベッダ人との関連を指摘するものもいるが明確にはわかっていない。 しかし、過去にアボリジニの一部が船でスリランカに到達していたとする と、テラ・アウストラリスの伝説は彼らにより伝えられたのかもしれない。

 

迫害

 このように独特なアボリジニの特徴や文化は偏見と差別を生む元になり、苦難の歴史をたどってきたのだ。

 数年前、外国語学院NOVAで英会話の教師をしているオーストラリア人のP氏とアボリジニの話をする機会があった。 私は、アボリジニに興味があるので話は大いに盛り上がったのだが、今でもP氏の言動を忘れる事が出来ない。

 P氏によるとアボリジニは入植した白人のハンティングの対象でしかなく、人間の形をした野獣にすぎなかった。 これがアボリジニに対する認識なのだ。 ガ リバー旅行記に、人間の言葉を話す知的な馬と人間の形をした知性の欠けらも無いヤフーというのが出てくるが、まさにこのヤフーがヨーロッパ人の考えた アボリジニそのものなのだ。

 更に、P氏は続けた、「タスマニアにはタスマニアン・アボリジニという今の人間とはまったく違う種類の人間が住んでいたのだが、ここでは白人のハンティングでタ スマニアン・アボリジニは絶滅してしまった。 もし皆殺ししていなければ、自分たちと違った人間を見られたのだが残念だ、自分とまったく違う種類の人 間を想像できるか?」と! 

 もちろんタスマニア人が現代人と違う人間などという事はまったくの間違いで、完全な現代人だ。 確かにP氏の言うとおりタスマニア人の多くが白人のハンティングの犠牲になった事は間違いの無い事実らしい。

 しかし残り少なくなったタスマニア人は、今度は人類学者の格好の餌食となった。

 タスマニア人の最後の生き残りの一人ウィリアム・ラニーは1869年に死亡したが、本人の安息の望みもむなしく、遺体は死体保管所から3つの科学者グループにより盗み出される事になる。 最初のグループが頭部を盗み出し、次のグループがばら ばらに切断された四肢と胴体を盗み出した。 最後のグループが、死体保管所の扉を開けたときには、わずかな肉片しか残ってなかったと言う。

 更に、タスマニアン王立協会のストックウェル博士にいたってはラニーの皮膚で煙草入れを作成し愛用して いたと言うから驚きだ。

 タスマニア人は、現在のオーストラリアのアボリジニとかなり違っていたと言われるが、絶滅してしまった ために現在のアボリジニとの明確な関係は不明である。

 以上のように見た目の違いから苦難の歴史をたどってきたアボリジニだが、彼等が他の人種には見られない 解剖学上の特徴を備えている事も事実だ。

 まさにアボリジニは、現代人の進化を考えるうえで鍵を握る存在であると同時に、人類学者の間ではアボリ ジニをめぐる解釈で長い間、論争が続いている。

 アボリジニの謎を考える前に、少し人類進化の最新の研究成果について検討してみよう。

 

2種類のホモサピエンス

 読者の多くは、人類の進化は猿人、原人、旧人、新人という段階をたどってきたと習ったのを記憶している 事だろう。 この進化段階は、今でも崩れてはいないが、この単純な分類だけでは、とても収まりきれなくなってきているのも事実だ。

 現在では猿人は、アウストラロピテクス族やホモ族、バラントロプス族などに細分化されている。 2001年に入ってからもケニアントロプス・プラティオプスと言うまったく新しい族ではないかと 思われる猿人化石が発見されたばかりだ。

 更に原人と旧人、新人の分類は、曖昧になってきている。 原人はホモエレクトスと呼ばれ、この時代に始 めて人類の祖先がアフリカを出て世界に広がって行ったとされている。

 ジャワ原人や北京原人などもアジアに渡ってきたホモエレクトスに分類される。 

旧人と新人に関しては、もともと旧人はネアンデルタール人、新人はクロマニオン人からき ている。 いずれもヨーロッパの古代人だが、クロマニオン人は解剖学的に完全な現代人で、現在では現代型ホモサピエンスと呼ばれる事が多い。 一方旧 人もネアンデルタール人を含め世界各地で見つかっているが、これらの旧人レベルの人類をまとめて古代型ホモサピエンスと呼ぶ。

 ヨーロッパでは約28000年前に最後のネアンデルタール人が滅び、 クロマニオン人へ移行したため旧、新という分類が成り立つ。 しかし、中近東では状況が異なっている事がわかってきた。

レバントのカフゼー洞窟で発見された現代型ホモサピエンスの人骨は、最新の年代測定の結 果、約9万年前のものである事が判明したのだ。

現代型ホモサピエンスが9万年前の地層から発見されたという事は、少なくとも古代型ホモサピエンスのネアンデルタール人と現代型ホモサピエンスは、6万年以上も共存していた事になる。

このように、古代型ホモサピエンスと現代型ホモサピエンスの関係は単純に、旧、新という時間的な直線関係には無い事がわかる。 最近ではプロト・ネアン デルタール人と分類される、より古い時代の古代型ホモサピエンスが世界各地で発見されているが、これらプロト・ネアンデルタール人こそ本来の古代型ホ モサピエンスで、ネアンデルタール人は特殊化した形質の異なる別系統のホモサピエンスと考えるほうが妥当である。 事実ネアンデルタール人は古いとさ れる特徴を備えているにもかかわらず、その脳容量は平均1400ccで、現代人の平均1350ccを上回っている。

 

現代人の二大進化仮説

古代型ホモサピエンスから解剖学的現代人である現代型ホモサピエンスへの進化は従来から 大きく分けて2種類の説が考えられ互いに対立して来た。 人類学者の多くは多地域進化説として知られる仮説を支持して来 たのだが、レバントでの発見以来この進化説が揺らぎ始める事になる。

多地域進化説は、世界各地でホモエレクトスや古代型ホモサピエンスから現代型ホモサピエ ンスに同時多発的に進化したというもので、ヨーロッパではネアンデルタール人からアジアでは北京原人やジャワ原人の子孫の古代型ホモサピエンスから現 代型ホモサピエンスに進化したとするものだ。

一方、この説に真っ向から対立しているのが単一起源説である。 この説では、アフリカで 進化した現代型ホモサピエンスが、世界中に散らばっていた古代型ホモサピエンスやホモエレクトスを完全に駆逐し入れ替わったとする説である。 この説 では「最初に現代型ホモサピエンスとしての進化がおこったアフリカ大陸」の北部に位置するレバント付近に現代型ホモサピエンスが古くから住み着いてい た事を見事に説明可能である。

更に近年ミトコンドリアDNAの研究から現代人の共通の祖先はアフリカにたどり着くという、ミトコンドリアイブ理論が出てきて単一起源説の有力な証拠となった。

近年、古代人のDNA研究が盛んになってきているが、一般的に研究に使われるDNAは、人間の遺伝にかかわる核DNAで はなくミトコンドリアDNAである。 動物の細胞の中には、エネルギーを作り出す微小器官ミトコンドリアが存在す る。 このミトコンドリアは、もともと単独で存在した生物が動物の細胞内に取り込まれ、共生と言う形でエネルギー生産を行うようになったと考えられて いる。 したがってミトコンドリアは独自のDNAを持っている。

このミトコンドリアDNAと核DNA違いは、核DNAは人間の遺伝情報を両親から受け継ぎ生殖のたびに変化するが、ミトコンドリアDNAは、母親のみから受け継がれ変化しない事にある。 ミトコンドリアDNAが変化する時は、ただ一つ突然変異である。 

したがって核DNAでは、両親が組み合わされた変化と突然変異があるの対し、ミトコンドリアDNAでは、突然変異のみになる。 突然変異は発生する確率は一定と考えられ、長いスパンで見ると変化量を追っかける事により一種の分子時計としての働きがあ る。

更にミトコンドリアDNAは核DNAよりずっと高率に突然変異を起こす事か ら、各集団のミトコンドリアDNAの変異量を測定する事で集団が分かれた年代がわかるのだ。

この手法に基づき現代人の各集団を比較したところ、現代人は1520万年ぐらい前のアフリカで一つの集団に収束すると言うのだ。

そして単一起源説を決定的に有力にしたのが、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA抽出の成功である。 複数のDNA研究から現代人、特にヨーロッパ人がネアンデルタール人と遺伝学的なつながりが無いとされたからだ。

それでは、すべての現代人はやはりアフリカ起源なのだろうか。 ここで再びアボリジニに 話を戻す事にしよう。

 

単一起源説の矛盾

ミトコンドリアイブ理論とネアンデルタール人のDNA抽出以来、断然優位に立つ単一起源説だが、この仮説を唱える学者もオーストラリアの先住 民アボリジニの解釈には苦慮している。 

アボリジニは先にも述べたように他の人種とは大きく異なる特徴を持っている。 この事 は、文化や外見だけでなく解剖学的にもいえる。 アボリジニは、比較的厚い頭蓋骨、発達した眼窩上隆起、後退した額に突出した顎部と大きな歯など古い 人類の物とされる特長を多く備えているのだ。

もちろんこれらの特徴は現代人の平均値と比較してという事で、現代人の変異の範囲に入 る。 又、現代のアボリジニにおいては、これらの特徴が顕著に目立つものは少ないが、ほんの数千年前まで古い特徴を顕著に備える人々が多数いたのは間 違いの無い事実だ。

アフリカ単一起源説では、アフリカで進化した現代人が世界に散らばっていったわけだか ら、他の大陸とは隔絶されたオーストラリア大陸やアメリカ大陸には最後に移住してきたのである。 一番、最後に到達したはずのオーストラリア大陸でな ぜアボリジニは比較的古いとされる人類の特徴を多く備えているのか?

単一起源説を唱える学者によれば、アボリジニの特殊性は認めつつも、オーストラリアの厳 しい自然がアボリジニにあたえた影響だという。

一方、多地域進化説を支持する学者によれば、現代人への進化の波はアフリカやアジア、 ヨーロッパで、ほぼ同時多発的に起こった。

しかし他の大陸と隔絶されたオーストラリア大陸では進化の流れが最後に到達した為、最後 に現代人への進化を遂げたアボリジニに古い特徴を備えた人々が存在するとされてきた。

 

適応進化?

 人類学者の多くは、人種の特徴を単純に環境への適応として片付けてしまう傾向にあるが、これらは矛盾に あふれている。

ネアンデルタール人の特徴の一部として、巨大な鼻と前に出っ張った立体的な顔面、ずんぐ りむっくりの筋肉質の体形等があげられている。 なぜ巨大な鼻で立体的な顔か?

人類学者はネアンデルタール人が氷河期に存在した人々で寒冷気候に適応した結果、肺に送 られる空気を少しでも体温で暖めるため大きな鼻と立体的な顔で肺との距離を稼いだためだという。 ずんぐりむっくりの体形は寒い環境に体温を奪われな いため体表面積を最小にした結果らしい。

 一方北方アジア人の特徴としてよくあげられるのは、低い鼻とずんぐりむっくりの体形である。 ずんぐり むっくりの体形は、ネアンデルタール人と同じ寒冷適応のため体表面積を減らした結果とされる。 しかし、低い鼻や彫りの浅い顔は、ネアンデルタール人 とはまったく対称であるにもかかわらず、やはり同じく寒冷適応の結果で熱を奪われないように体表面積を最小にした結果だという。

 最近では、ネアンデルタール人は少ない日照時間と寒冷適応の結果、今の北欧人と同じように白い肌、碧眼、金髪だったという説が有力である。 では、ア ボリジニが金髪なのはなぜだろう? オーストラリアの日照時間は少ないとは言えないし、最南端を除いてとても寒冷気候とも思えない。

 北方アジア人の目が、細いのはやはり寒冷気候に適応した結果で、雪上での日光の照り返しから、目を保護 するためだという。 では何故、ポリネシア人は目が細くないのだろう? 日光の照り返しは、南太平洋の海面の方がよっぽど強いはずだ。 

更に北欧人といえば、スタイルの良い長い手足に彫りの深い顔が誰でも思い浮かべられる が、彫りの浅い顔やずんぐりむっくりの体形が寒冷適応の結果なら彫りの深い顔や長い手足は、熱帯適応の結果に他ならない。 事実、人類学者は黒人がス マートなのは、熱帯適応の結果、体表面積を増やすため手足がすらりと伸びた結果だという。 

 このように、人種の特徴は、それぞれを専門に研究する学者が環境にこじつけているだけで、相互にまった く関連性は見られず矛盾だらけなのだ。

この事を裏付ける最も極端な例がネアンデルタール人の発見にまつわるエピソードである。  ドイツでのネアンデルタール人発見当時、進化論的考えに猛烈に反対していた生命科学分野の権威ウィルヒョウは、ボン大学のマイヤーの唱えた珍説を全 面的に支援したのだ。 マイヤーによれば、この人骨の持つ骨盤や大腿骨の変形は、この人物が幼少時代より乗馬をしていた証拠で、左腕の骨折跡の予後が 悪く、いつも苦痛に顔をしかめていた為、眼窩上に骨隆起が出来て頭蓋骨が変形した。 又、この人物がクル病にかかっていた事も、変形の一因だとした。 マイヤーは、これらの研究結果より、この人骨の持ち主はナポレオン戦争末期のコサック騎兵の哀れな脱落兵のものだと結論付けたのだった。

今考えれば、このように無謀な仮説がまかり通った事自体が信じられない事だが、当時のド イツではウィルヒョウの権力は絶大で、マイヤーの唱えた脱落コサック兵説が盲目的に信じられるようになった。

これらの例からわかるようにアボリジニの特殊性を単に、厳しい環境への適応の結果として 一言で片付けるには無理があるといわざるを得ない。

それではアボリジニの特殊性は、どのように解釈すれば良いのだろうか。

 

・・・後編に続く・・・

 


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