和 国の曙を求めて プロローグ編

  日本最初の統一国家 大和朝廷はいつ頃、どのように成立したのか?それ以前の古墳時代や邪馬台国等との関係は?或いは記紀神話との関係は?実に多くの 人々が、疑問を抱き研究を重ねてきているが、未だにはっきりしていない。

  ところが、これらの謎をいっきに解き明かすかもしれない驚きの場所が、宮崎県にあった。私は数年来、この場所に注目してきたが、一人の不屈の研究家の 努力により、想像を絶する規模の幻の古代製鉄国家の全貌が明らかになりつつある。

  先ずは、これまでの簡単な経緯と、この発見が意味する驚愕のシナリオを簡単にまとめてみた。もちろん、このような全貌がつかめてきたのは、つい最近の ことだ。これから、このシナリオに沿った形で、調査を進めていくことになる。

調 査過程では、このシナリオに矛盾する事や新たな事実が出てくるに違いない。特に天照大神のモデルが卑弥呼と言う証拠は何一つ無く、単なる可能性にすぎ ない。新しい結果がまとまり次第、随時シナリオの更新、情報の追加していく予定である。

 

知 られざる巨大古墳群

宮 崎市瓜生野地区、及び隣接する地域、ダウンタウンから車で15分 ほど、大淀川を遡った場所にある。この瓜生野地区、上北方、柏田、笠置と周辺部には、信じられないほど多くの古墳群が広がっている。古墳として認定さ れた場所以外にも数限りない古墳が存在する。あまりに古墳だらけのため開発が進むにつれて、その多くは発掘もされないまま壊されているのが実情であ る。

こ の瓜生野・上北地区(住民は上北方を上北と呼び習わしている)を中心として、長年考古学調査を行ってきた日高という個人研究家がいる。調査と言って も本格的な発掘が一人で出来るわけではないので、工事等で剥き出しになった遺跡を見つけては出向き、工事の傍らで出土物を拾い集 めるというスタイルをとっている。長年このスタイルを続けているおかげで工事関係者 も邪魔をしない限り、おおむね理解があり協力的である。

  この日高氏が、平成8年、 上北と川をはさんで隣接する柏田の変電所裏の小山が、巨大墳丘墓である事に気づいた。実際、調べてみると、その場所は既に大正時代に宮崎市によって史 跡として認定されている場所だった。しかし、既に住民の記憶からは忘れ去られ、柏田に大きな古墳があるという噂だけが残っていたようである。

  周辺から出土したものを、考古学者と相談し時代考証を行った結果、3世 紀前半から遅くとも3世 紀中ごろの史上最古級・最大級の前方後円墳である事が確認された。しかし、日高氏が周辺を綿密に調査した所、後円部の先に、もう一つ円形墳丘があっ た。当初独立していると考えたが、取り巻く空掘りが全体を取り囲んでいる事から一つに構成されていることがわかる。更に周辺に付随する墳墓などを、地 図上に描いていくと何と全体として巨大な鳥の形をしている事がわかった。

  残念ながら、羽の右側部分は開発が進んでいるため、まったく残されていないが、左羽部分は明らかに古墳と一体に構成されている事が判る。

  この古墳を一帯の呼び名に基づき笠置山古墳と名付け、他の古い古墳などとも比較した日高氏は、大淀川を挟んで対岸にある跡江地区の国指定生目一号墳も 鳥形古墳である事を発見する。

こ のことから、日高氏は前方後円墳はもともと鳥形古墳であったものが、後に簡略化されて鳥の胴体部分のみが作成されるようになり、前方後円墳となったと 考えている。

  ところが、この笠置山古墳の一部は、道路工事予定地にかかっていて、鳥形墳丘墓の頭部分に工事車両が入ってきた。日高氏の必至の訴えにより工事は一時 中断し、試掘が始まった。その時点で、すぐに子供用の石棺など出土物が大量に出てくる。地元の人も多く見学に訪れ本格的な発掘が、始まるのを期待を 持って見守った。

  このときは、ちょうど4年 前の夏で、私も現場を訪れて説明を聞き遺跡を写真に収めている。実際に墳丘墓と確認されたわけだから、発掘しないわけにはいかないので安心して大丈夫 だと地元の考古学者も太鼓判を押していた。

  ところが、期待は見事に裏切られ、突然何事も無かったように工事は再開し、日高氏の再三に渡る訴えにも誰一人調査に来る事無く、墳丘墓は見るも無残に 破壊されてしまった。しかし、逆に考えれば、この道路工事によって日高氏が指摘していた通り墳丘墓が存在した事は確認できた。それに破壊された部分 は、巨大鳥形墳丘墓の頭部分のみで、胴体の前方後円部は、それ以前の工事で一部を壊されているもののほとんどが残されている状態である。

  更に、日高氏の調査から、この一帯には信じられないほど大規模な、たたら製鉄の跡が残されている事が判明している。

  いずれにしろ日高氏の研究からハッキリした事は、この古墳を中心とした瓜生野・上北周辺は、3世 紀頃既に国と呼べる規模で繁栄しており、もっとも古い日向の国の中心地であったと言う事だ。

 

 

上 北は神話の発祥地だった

  日本最古級、最大級の鳥形墳丘墓は、何を意味するのか?調べてみると面白い事が判ってきた。この笠置山古墳に隣接する上北地区は鶏を天照大神の使い鳥 として信仰していたのだ。上北地区では、昭和2年 まで、鶏肉を食することを禁じられていたらしい。これは、地鶏が特産で、鶏肉を実に良く食べる宮崎では大変異例な事である。昭和3年 以降この禁は解かれたが、現在でも鶏を神の使いと崇め、鶏肉を食さない家が存在すると言う。

  更に、上北地区には天照大神の岩屋戸隠れの伝説も残されていた。実際、天照大神がお隠れになった岩屋戸を祭ったと言う磐戸神社が、現在もひっそりと存 在する。ところが、この地区に残された、記紀神話と同じ伝説は、天の岩屋戸隠れだけではなかった。

  瓜生野柏田地区には、ヤマタノオロチ退治の伝説が存在する。笠置山古墳の前方部の先には、八坂神社(別名八竜神社)があり、スサノウノ尊が祭られてい る。そして周辺には、ヤマタノオロチが住んでいた谷、退治の時に飲ませた酒を造った場所、瓶を置いた場所など、ヤマタノオロチ伝説にまつわる場所が、 全てそろっている。

  その他にも周辺には、記紀神話にまつわる伝説が、数多く存在する。

  何故、この狭い地区にこれだけ多くの伝説が存在するのか。更に調べてみると、この地には、伝説だけでなく畿内地方の有名な地名が多く残されていたの だ。そもそも、笠置山古墳と名付ける事になった笠置及び笠置山は、京都の観光名所と同じ名前である。

  上北地区と大淀川を挟み反対側の跡江地区には、伊勢という地名も残されている。そして、笠置山古墳のすぐ脇を流れ、笠置・柏田と上北を区切っている川 は、五十鈴川と呼ばれている。五十鈴川は伊勢神宮の参拝者が、禊を行う川としてあまりに有名である。

  更に柏田、笠置、上北を含む広い地域は瓜生野とも呼ばれているが、同じ呼び名で呼ばれていた地域が、大阪南部、大和川河口北岸に存在した。大和川をは さみ南岸には、応神稜、仁徳稜など日本を代表する巨大古墳群がある機内地方の神話の里である。

上 北周辺には、古墳だけでなく、数多くのたたら精鉄の跡地が残されている。たたら場、古墳、有名な地名に記紀神話の伝説、これらが意味するものは?

  上北地区こそ、畿内地方へ進出した古墳時代人の中心的国だったのだ。こう考えると、全てのつじつまが合ってくる。この地に畿内地方の有名な地名が見受 けられるのは、移住した人々が、地名ごと持っていったからに他ならない。

最 近では、神話はまったくのデタラメではなく、古くから伝わる故事を何らかの形で繁栄しているとする考え方も一般化してきている。日本の記紀神話がまと められたのは、大和朝廷成立後である。記紀神話の語る伝説は、高天原、筑紫(日向)の国、出雲の国の三つの舞台に分かれているが、それは編纂をしたも のが、それぞれの神話にふさわしい地として、割り振ったのではないだろうか。一方、瓜生野地区周辺には、高天原、筑紫、出雲の伝説がごちゃ混ぜにそ ろっている。この事は、この地が神話を編纂した人々の故郷であり、神話の基になった故事の一部は、実際に、この地で起きたエピソードにちなんでいると 考えられる。

勿 論全てが、この地から始まったわけではない。前述の日高氏も、この地に移り住み国を作ったのは、北九州地方の優れた技術を持った渡来人だと考えてい る。実際、地名の多くが、北九州と機内地方で共通している事は、古くから知られているが、仲立ちとして宮崎があったのだ。

  それでは、鳥形巨大墳丘墓の被葬者は誰だろうか?3世 紀前半の史上最大級の古墳である。埋葬されているのは、神話に登場する神々のモデルとなった有名人と考えられるのではないだろうか。鳥形巨大墳丘墓、 天照大神を信仰し鶏を食べない風習、磐戸神社の存在、これらを総合すると、自ずと答えは導かれてくる。天照大神こそ、この古墳の被葬者と考えられるの だ。

鶏 は太陽を表す神聖な動物で、太陽神天照大神の使いとされている。岩屋戸に隠れた天照大神を、誘い出すときにも「常世のナガナキ鶏」に時を告げさせてい る。つまり、鶏に関わりが深い神は、天照大神をおいて他にいないのである。

3世 紀前半と言えば、まさに邪馬台国の時代、記紀神話の原型が作られた時代である。神話の原型となったエピソードは、人里はなれた場所ではなく、人々の生 活する場所で作られたはずである。日向を代表する国のあったこの地は、まさにそんな場所であった。天照大神のモデルとなった人物、それはもしかしたら 邪馬台国の女王・卑弥呼であったかもしれない。上北地区は、その呼び名の通り「神来た地区」だったのだ!!

 

笠 置山古墳は卑弥呼の墓だった

そ もそも3世 紀に遡る有名な人物は、卑弥呼を置いて記録されていない。確実に墳丘を持つ古墳に葬られた歴史上最初の人物である。笠置山古墳が、3世 紀中ごろのものだとすると、その規模から言って卑弥呼の墓の第一級の候補地になる事は間違いない。
  実際、天照大神と卑弥呼を同一視する研究者は、現在では大勢いる。問題は、笠置山古墳が卑弥呼の墓だと仮定すると、邪馬台国もこの地にあった事にな る。
  現在、邪馬台国は畿内にあったとする説が、有力である。その根拠は、魏志倭人伝の距離表記どおりに旅をすると畿内地方ぐらいの距離に行き着いてしまう からである。しかし、方向的には畿内には絶対に行き着くはずが無く、宮崎が最も正しい方向にある。問題は、魏志倭人伝の距離表記では、邪馬台国は宮崎 の遥か南方になってしまい存在しようが無いと言う事である。この為、魏志倭人伝の方向表記は間違っていて、距離表記が正しいとされ、畿内説が有力とさ れている。
  しかし、魏志倭人伝の方向表記が間違っていると言う考えが成り立つのならば、逆に距離表記が間違っていると言う考え方も成り立つはずである。更にもう 一つの可能性として、解釈自体が、間違っていると言う事も可能である。
  実は、距離の解釈の問題は実に複雑で、伊都国(現在の福岡県前原市を中心とした二丈町、志摩町、福岡市西区の一部を含む糸島地方)から先をどう解釈す るかが、大問題となっている。従来伊都国から先の国への距離は、伊都国から奴国まで陸行100里、 奴国から不弥国まで陸行100里 というように、それぞれ加算されてきた。

し かし、原文の書き方から、伊都国から先は、全て伊都国からの距離が示されているという解釈が可能な事が判っている。この場合、伊都国から奴国まで陸行100里、 伊都国から不弥国までは陸行100里 というように伊都国より先は、すべて伊都国が基点となる。当然邪馬台国までの距離も、伊都国が基点となり水行10日、 陸行1月 となる。これなら何とか、九州内に収まるだろう。宮崎も十分射程距離に入ってくる。
  では、何故、邪馬台国九州説は廃れてしまったのだろうか?それは畿内地方で、卑弥呼が魏から送られたと考えられる大量の三角縁神獣鏡がみつかったから だ。更に畿内地方には、卑弥呼の墓と考えてもおかしくない古い古墳が存在するうえ、邪馬台国から大和朝廷につながったと考えると歴史上もスムーズに事 が運ぶからである。
  しかし、何故、畿内地方同様に古墳が数多く存在し、神話の地である宮崎が、有力候補地としてあがらないのだろうか。九州説を唱えるものの多くは水行10日、 陸行1月 の部分を、船で行くなら10日、 陸路なら1月 と読み取り、邪馬台国は北部九州の域を出ないとする。
  勿論、北部九州や畿内地方などに比べ鏡などのリッチな出土物が、宮崎では少ない事が理由の一つである事は間違いない。しかし、その理由の一つに、政治 思想的な背景も考えられる。それは、戦前の「神話は歴史であり天皇は神である」とする皇国思想に始まる。

邪 馬台国の女王卑弥呼は、魏に使いを送り自ら魏に忠誠を誓い属国となっている。このような屈辱的な、行為を行った国の女王が、天皇家と直接つながる神話 の世界と結びついては困るのだ。だから、卑弥呼は北部九州に存在した国の女酋長で、神話の国宮崎とは関係がないとされたらしい。
  ところが、戦後は一変して皇国思想を否定する事になる。皇国思想を否定する考えでは「神話はフィクションであり、歴史とは何の関係も無い。或いは、 あってはいけない」と捉えられた。つまり、この考えでは宮崎は、あくまで神話の里であり歴史の里であってはいけないと言うことである。
  だから邪馬台国を宮崎に持ってくると、何らかの形で神話と結びついてしまい、戦後のリベラルな学者は敬遠したと考えられる。ある意味、宮崎に邪馬台国 はタブー視されてきたのかもしれない。勿論これが、偏見である事は言うまでもない。
  神話を読み解き、再び歴史の世界と結びつけるとき、宮崎は邪馬台国の最有力候補地として急浮上してくるのだ。そして、その場所こそ笠置山古墳周辺、瓜 生野、上北地区を中心とする古代国家と考えられる。
  天照大神が、卑弥呼を連想させる事は、周知の事実である。ヤマタノオロチ伝説も、ヤマトノオロチ伝説=邪馬台国のオロチ伝説と読み取る事が出来る。
  魏志倭人伝によると、邪馬台国の第一の官は、伊支馬(イキマ)であるとされているが、笠置山古墳と大淀川を挟んで対岸には、国指定の生目(イキメ)古 墳群がある。
  そして、前述のように生目一号墳は、鶏型をしている。邪馬台国の第一の官の中心があったと考える事になんら矛盾しない。
  魏志倭人伝によると邪馬台国の手前には投馬国があったとされるが、この国の官は、弥弥(ミミ)と弥弥那利(ミミナリ)である。現在の地図を見ると宮崎 市の北方の日向市に美々津及び耳川の地名が残っている。おそらく投馬国とはこのあたりを指すのだろう。
  このように、笠置山古墳が卑弥呼の墓である可能性は否定しきれないどころか、現時点では、最も可能性の高い候補の一つに加えられるだろう。

 

 

主 要参考文献

l         史 上最大級の遺跡 日向神話再発見の目録  文芸社:日高

l         邪 馬台国論争99の 謎  二見書房:出口宗和

l         シ ンポジウム邪馬台国が見えた  学生社:樋口隆康・平野邦雄監修




 


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