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 笠置山製鉄ツアー 

 20039月、私は再び宮崎へ向かっていた。今回は空路宮崎入りである。おりしも台風が宮崎に接近中のため、天候調査中との事でなかなか搭乗が始まらない。散々待たされたあげく、着陸できなければ鹿児島空港に向かうと言う条件で、何とか、飛行機は飛び立った。しかし、宮崎上空に差し掛かった飛行機は旋回を始めてしまった。着陸できるか再び天候調査中だという。

 あきらめかけた頃、強風吹き荒れる中を宮崎空港に着陸した。台風は、ちょうど宮崎に最接近中で、どうやら私の乗った飛行機が宮崎空港に着陸できた最後の飛行機だったらしい。電光掲示場を見ると、後の飛行機は着陸がキャンセルされていた。とりあえず、運があったというわけだ。

 今回の宮崎訪問の目的の一つは、ずばり笠置山墳丘墓である。前述の日高氏が、笠置山墳丘墓の発見の経緯をまとめた本を出版したのだ。日高氏の本によると、笠置山墳丘墓を中心とする宮崎平野中心部から数々の製鉄にまつわる痕跡が発見されたらしいのだ。膨大な製鉄にまつわる遺物のほかに、周辺には明らかに製鉄にまつわる伝承が数多く残されていた。本で、笠置山墳丘墓とその周辺に関する詳しい状況を知った私は、日高氏の主張する古代製鉄国家なるものが、本当に存在したのか確かめるべく、この地にやってきた。

 実は、一月前の8月にも宮崎を訪れ、日高氏から説明を受けていた。しかし、日高氏に直接説明を受け、再び本を読み返す内に、次から次へと疑問点や確認したい点が浮かび上がり、本格的な調査をする為に舞い戻ってきたのだ。今回は、日高氏案内による笠置山ツアー付きである。   

翌日、日高氏が資料を抱えてやってきた。とりあえず、日高氏の講義が始まった。笠置山墳丘墓の話から始まり、周辺に大量に残されている製鉄の痕跡、それにまつわる伝説等々、講義は、延々と続いた。一通り、説明を聞き終えた所で、いよいよツアーに出発だ。

 まず最初に向かったのは、大規模な製鉄が行なわれていた事を示す「タタラ溶鉱炉」の炉片が数多く見つけられる場所である。日高氏によると、笠置山墳丘墓のある付近には、3箇所に、ヤマタノオロチ伝説があると言う。伝説の詳細は、後ほど説明するとして、ヤマタノオロチ伝説と言えば、記紀神話に登場する須佐之男命による大蛇退治の神話である。

 記紀神話の舞台は、高天原、日向、出雲、伊勢等と分かれていが、ヤマタノオロチ退治は、須佐之男命が高天原を追放され出雲の国にやってきた時に、おこった出来事とされている。現在では、この神話は、製鉄と深い関係があるとされている。出雲と言えば、古代世界において大規模な製鉄が行なわれていた事で有名なので、なるほどヤマタノオロチ退治の伝説の舞台としては当然である。

しかし、宮崎平野の同じ地域に3箇所もヤマタノオロチ退治の伝説があるということは、いったいどういう事だろうか。神話では、出雲の国の出来事として描かれているヤマタノオロチ退治が、伝説上は宮崎平野つまり日向の国にも残されていたのだ。

笠置山墳丘墓の前方部の先に、八坂神社がある。この神社は、別名「八龍神社」とも呼ばれ、祭神はスサノオノ命で神社の奥に棲んでいたというヤマタノオロチを祭っている。瓜生野に残されたヤマタノオロチ伝説の内容は、基本的に誰もが知っている出雲の物語と同じで、八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチに、毎年、生贄の娘をささげていた村人を哀れんだスサノウノ命が、この怪物を酒に酔わせ退治するというものである。

瓜生野のヤマタノオロチが棲んでいたのは、柏田の奥の伊屋ヶ谷で、現在でも薄気味悪い場所である。伊屋ヶ谷の少し下流には、子捨てが平(コジエヒラ)と呼ばれる場所がありここに、毎年いけにえの娘を捧げたと言う。

 八龍神社の裏には、八つの池があり、そこがヤマタノオロチに飲ませる酒を入れた八つの瓶に対応する。近くには、酒のモロミを発酵させたというもろが谷もある。この付近では、雨乞いのときに八つの池を掃除し、藁で竜の形を作り大淀川に流す習慣もあった。

 ヤマタノオロチ退治が製鉄と深い関係があるというのなら、やはり、この地の伝説も製鉄と関係があると考えられる。日高氏は、笠置山墳丘墓の工業区と名付けた場所で、古代の規格どおりのサイズのタタラ溶鉱炉の痕を発見したと言う。この工業区のある場所は、かなり以前に宮崎県も発掘調査を行なっており、やはりタタラの痕が発見されて公式に発表されていた所でもあった。

タタラ、たたら、多々良、踏鞴など色々な書き方が在るが、すべて、近代製鉄が始まる以前の日本における製鉄技術の総称である。一説によると、この言葉の語源は西アジアの先進的な青銅器・鉄器文化を持った強大な民族タタールに由来すると言う。

 タタラの痕は、笠置山墳丘墓周辺にとどまらず広い範囲で大量に見つかっていると言う。更に周辺からは、大量の鉄さいも見つかっている。鉄さいは、言わば、製鉄の際に出来た鉄塵である。鉄さいが発見されたと言う事は、確実に製鉄が行なわれていたと言う事を表す。

 しかし、工業区や王宮区のある笠置山墳丘墓の羽の部分は、すでにほとんどが、壊されている上に、人家や畑の下になっているので、今では近づく事さえ出来ない。代わりにということで、日高氏に連れられて、竹篠という高台になった場所にやってきた。

この付近は、段丘になっていて、平野から一段上がった広大な高台が広がっている。高台に広がった畑の真ん中の交差点で、車が止まった。車を降りた日高氏は、しきりになにやら白い石ころのような粒を地面から拾い集め始めている。「ちょうど、雨の降った翌日は、湿気を含んだ地面の上に、白く浮き出るので、見つけやすいとですよ。いい時に来なすったわ」そう良いながら、両手一杯に拾い集めてきた。大きさは、大豆ぐらいからビー玉ぐらいで、石のようにも土の塊のようにも見える。 

 日高氏が、指で砕いたので、まねをしてみた。びくともしない。もう一度、今度は、思いっきり力を入れてみた。今度は指の中で砕け散った。石ではない。かといって、単なる土の固まった物にしては堅すぎる。よく見ると、軽石のようにスカスカの構造をしている。所々に金属光沢のあるものも混じっている。

 なんと、これがタタラ溶鉱炉の炉片だと言うのだ。確かに、高温で変質した土くれのように見える。実際、日高氏が工業高校の教師である兄を通して調査に出した結果、高温で焼かれた土だということが判明している。後に、持ち帰った炉片を考古学の権威 小田静夫博士に見せた所―「確かに高温で焼かれた土で、タタラ溶鉱炉の破片と考えられる」と言う事であった。

しかし、その量は尋常ではない。広大な畑一面に同じような物が広がっている。竹篠の高台では、全域にこの炉片が散らばっているらしい。何故、この高台で、これほど大量の炉片が見つかるのか。それは、非常に古い露天タタラ(製鉄に必要な風を得るため、風当たりの強い丘の斜面に、「火窪」或いは「ほと」と呼ばれる窪みを掘って、そこに砂鉄と木炭を投入し、竹管で送風して溶解還元させ、鉄を得る最も原始的な方法)の時代から、長期間にわたりタタラ製鉄が行なわれてきた証拠だと言う。タタラ溶鉱炉は、毎回壊される為、膨大な量の炉片が、蓄積されていったのだ。

そもそも日本において、製鉄が始まったのは、何時のことか。実は、正確な事はわかっていない。弥生時代にも、鉄が存在した事は確実なのだが、それが国内において製造された物かどうかは、意見が分かれる。しかし、「古代の鉄と神々」の著者 真弓常忠博士の説によると、製鉄の始まりは、弥生時代にさかのぼると言う

製鉄と言えば、一般的にはフイゴを用いた溶鉱炉が必要である。土器製造などとは異なり、フイゴを用いて酸素を強制的に供給しない限り、鉄原料が溶ける温度には、達しないと考えられるからだ。ところが、真弓博士によると鉄は溶解しなくとも7800度の温度で可鍛鉄を得る事で鍛造できるらしい。更に砂鉄ではなく「ある種の鉄原料」を用いると、フイゴを用いない露天の炉での製鉄は、更に簡単になると言うのだ。ある種の原料とは、鈴と呼ばれる褐鉄鉱石である。

古来より、鉄分の多い場所で育った葦の根元の茎周りには、渇鉄鉱石がしだいに蓄積して筒状に育っていく事が知られている。これは、鈴或いはその形状から筒と呼ばれていて、鉄の原料となりえると言うのだ。しかも、チタン分の多い砂鉄などよりもはるかに低い温度(9001000度)で還元でき、品質はともかく、露天タタラでも十分に鉄を作る事が可能である。

つまり、風通しの良い高台にある竹篠では、露天タタラの時代から、褐鉄鉱石を原料に製鉄が行なわれていたと考えられるのだ。特に、この付近の高台には、霧島降しと呼ばれる強風が吹き荒れるので、露天タタラを行なうには打って付けだった。

この付近の湧き水には、金気が多いと言う事は、知人から聞いていた。ならば、葦の根元に筒が大きく育った事は、容易に想像できる。更に驚く事に、笠置山墳丘墓の東側を流れる大淀川の支流で、瓜生野のヤマタノオロチ伝説の残る川の名前は五十鈴川と言う。

五十鈴川の名前が示す通り、この付近一帯では、実際に鈴が産出する。写真は、日高氏とともに拾った筒だが、この付近のいたる所で見つけることができる。宮崎平野は、隆起を続けており、高台にも太古に湿地で形成された鈴が、まさに鈴なり状態で散らばっている。

無数の炉辺に、大量の製鉄原料があるのだ。日高氏が、この場所こそ真弓博士の説を実証する場所と考えている所以である。

鍛冶道具発見

タタラ炉片を、一通り拾い終えると、今度は日高氏のとっておきの場所に案内してくれると言う。案内された場所は、やはり竹篠の一角にある王楽寺から、山の中に入った畑であった。あぜ道を歩きながら、日高氏が、地面を指差した。「これぜんぶ弥生式土器のかけらですよ」

 拾い上げてみると、確かに誰の目にも明らかな土器の破片である。あぜ道に所狭しと落ちている。先ほどの、タタラ溶鉱炉の炉片も一杯散らばっている。

「竹篠は、水の湧きにくい高台にあるので、縄文土器は、まったく無いとですよ。弥生式土器ばっかりですわ」・・・そう呟きながら、畑の一番奥までやってきた。この場所は、竹篠の中でも特別の場所だと言う。何が特別な場所かと言うと、ここからは鍛冶道具が、見つかっていると言う。炉片は、竹篠全域で見つかるものの、鍛冶道具が見つかる場所は、限られている。つまりこの場所は、溶鉱炉から出てきた鉄を持ち寄り、鍛えた場所なのだ。

しばらく、炉片や土器片を拾い集めていた所、日高氏が突然、あぜ道に半分埋もれていた石を堀出し始めた。水洗いした石を片手に、なにやら興奮しているようだ。日高氏が見つけた石は、手のひらぐらいの丸餅のような石で、両面の真中部分がくぼんでいた。よく見ると明らかな、打撃痕が残っている。

この石は、鉄を打つ時の台に使った「金床石」だと言う。間違いなく、古代人が鉄を打つ時に使用した鍛冶道具を見つけたのだ。・・・しかし、それにしては、いささか小さすぎやしないだろうか?ちょうど縄文人が、ドングリを砕く時に使った土台の石のように見える。

日高氏も、今回見つけた金床石が、見つかっている中でも最小の部類に入る事は認めた。しかし、金床石には用途に合わせて大きな物から小さな物まで使い分けられていたので、これは、矢尻の先のような、小さな物を加工するときに使われた物で、小さすぎると言う事は無いらしい。

この場所では、水が湧かないので、縄文人の遺跡も遺物も一切見つからない。よって、縄文人の遺物である可能性は無い。とすれば、鍛冶道具であると言う理屈である。

ところで、先ほどからの会話でもわかるように、日高氏は、この付近一帯の遺跡や遺物の出る場所を知り尽くしている。もともと、旧石器や化石を集める事が、趣味であった為、周辺の遺物の分布状態には、どんな考古学者もかなわないほど知り尽くしているのだ。その日高氏が、ここには縄文の遺物は無いと言うのだから、間違いはないだろう。

確かに、この付近の平野部には、縄文草創期から早期にかけての、縄文貝塚が多く見つかっており、縄文人の大きな集落が長期間にわたって維持されていた形跡はある。しかし、高台で、古い遺物が見つかる場所は、垂水と呼ばれる湧き水が豊富な場所に限られると言う。

そうこうしている内に、今度は、私自身が同じような石を見つけてしまった。先ほど見つけた石のように均整の取れた形ではないが、明らかに両面に打撃による窪みがある。これも金床石なのだろうか。それにしても、こんなに重要な遺物が、突然やってきて、こうも簡単に見つかる物だろうか。

しかし、この様な遺物は意外に簡単にあぜ道で見つかる物らしい。なぜならば、畑を耕した時にでてきた邪魔な物は、すべてあぜ道に捨てられるからだ。だが、今回は日高氏も驚いている。この場所は、徹底的に調査し尽くした為、もう遺物は出てこないと思っていたらしい。

この時に見つけた金床石と称される物も、後に小田静夫博士に見てもらった。すると即座に縄文人の物だという答えが返ってきた。縄文遺跡を、発掘でもしない限り、めったに見つかる事の無い珍しい物だと言う事だった。つまり、物を見ただけでは、金床石とは断定のしようが無いと言う事である。しかし、周りには弥生式土器ばかりで、縄文の遺物が一切見つからない場所に、縄文人の石が2点だけ転がっていると言うのもおかしな話だ。

この金床石には、所々に打撃痕に混じって、鉄錆が付着していた。これこそ、この石が、縄文人の物ではなく、鍛冶道具の証拠なのではと思ったのだが、これも証拠にはならないと言う。何故なら、石が畑にあれば農機具で叩かれ鉄が付着した可能性があるからだ。

日高氏案内によるツアーは、駆け足で進んだ。次に案内されたのは、笠置山墳丘墓に付属する羽の部分である。無残にも、新しく出来たバイパス道路で寸断されている。バイパス道路に面した畑の土手部分に、土壙墓の断面が見えているらしいが、草が生い茂っており確認は出来なかった。畑の下には、まだかなりの数の土壙墓が眠っていると言う。

次に、そのまま大淀川を渡り、対岸の跡江地区に向かった。着いた先は、跡江神社と言う小さな神社である。この場所が、何故重要なのか?跡江神社のある場所は、古来、伊勢と呼ばれる地名で、跡江神社は「伊勢の神明宮」と呼ばれていた。

なんと、宮崎平野に伊勢と言う場所があり神明宮が存在したのだ。つまり、三重県の伊勢市にある伊勢神宮の縮小版である。三重県の伊勢と言えば、記紀神話にも出てくる場所で、中央を有名な五十鈴川が流れる。驚く事に、宮崎平野の「伊勢の神明宮」も、大淀川を挟んで対岸には、五十鈴川があるのだ。日高氏によると、跡江神社は、元は大淀川の反対側、つまり、五十鈴川のある側にあったらしい。川の流れの変化に伴って移転されたと言う事である

 日向の中に出雲の神話があるかと思えば、次は、伊勢と言うわけだ。・・とくれば、残りは高天原だ。ここで、日高氏案内による本日のツアーは、終了と言う事で、高天原には、夕方、一人で出かけることにした。

 笠置山墳丘墓から五十鈴川を挟んだ、上北方地区の一角に、高天原はあった。天照大神を祭る磐戸神社である。通称、お伊勢様とも呼ばれるこの神社は、天照大神が隠れた磐戸の前に建てられていると言う伝承があるのだ。地元の伝承では、此処こそが、天照大神の磐戸隠れの舞台なのである。

 神社は、小高い丘の中腹に立てられており、急な階段が平地から伸びている。突然激しく降り始めた雨の中を、急な階段を上っていくと、途中に横穴式古墳が並んでいた。更にその脇には、意味ありげな石塔が並んでいる。

余談ではあるが、デジカメで写真をとると、数多くの「光の玉」が写った。この「光の玉」はいわゆる「オーブ」と呼ばれ心霊現象とよく結びつけられる。しかし、「光の玉」は、湿気のあるところで写真をとると、必ずと言って良いほど現れる。どうもデジカメにつき物の、技術的な問題のようだ。だが時折、神社や遺跡などで写真をとった時に明らかに普通の「光の玉」とは異なる明るい光が写りこむ事がある。磐戸神社の境内でも写った事がある。いったい何故なのだろう?

デジカメの液晶画面でたくさんの「光の玉」が写り込んでいるのを確認して、気味が悪くなったが、取り敢えず社殿まで上っていった。何処にでもある小さな神社だ。社殿の裏側に回ってみると、崖になっていて、洞窟らしき物が見える。建物は、洞窟の中に続いているようだ。ここが、天照大神が隠れたと言う洞窟なのだろう。

 今でこそ、寂れた感じの神社であるが、日高氏によると、戦前まではかなりの力を持った神社で、多くの参拝者を集めていたらしい。笠置山墳丘墓を破壊したバイパス道路が、神社をかすめるように、貫いている。神社の前の工事でも、大量の遺物が出てきたと言う。

 高天原にまつわる伝説の舞台を確認したところで、この日の調査は終了する事にした。雨は、いよいよ激しさを増し、すっかり日も暮れてしまい、辺りは神気みなぎる闇に包まれようとしていた。

 笠置山周辺の神話と伝承

 翌日も、日高氏の案内で周辺を探索した。日高氏が、鳥型だと称する生目一号墳は、整備もされないまま、畑と人家の間に横たわっていた。確かに巨大な前方後円墳である事は明らかに分かるが、鳥形をしていたかどうかは、分からない。たて看板を読むと箸墓古墳と相似形だということだった。この看板の絵でも確かに羽のような突き出しが一号墳にある事が認められる。

 こうして2日間にわたって周辺いったいを見て回ったわけだが、とにかく古墳や遺跡、遺物の出るポイントが多いのには驚いた。タタラ溶鉱炉の炉片も竹篠だけにとどまらず小原山、阿部ノ木池内丘陵と膨大な面積に及ぶと言う。更に記紀神話にまつわる伝説もいたるところに残されていた。

 前日に、訪れた磐戸神社のある上北方地区では、古くから鶏を天照大神の使い鳥として信仰する習慣が残されていた。驚く事に、昔地元の住民は、鶏をまったく食べなかったのだ。それどころか、鶏を食べる事自体が、昭和2年まで、禁じられていたらしい。これは、地鶏が特産で、鶏肉を良く食べる宮崎では大変異例な事である。昭和3年以降この禁は解かれたが、現在でも鶏を神の使いと崇め、鶏肉を食さない家が存在している。

 近くには、天照大神の使い鳥が飛び回り時を告げたと言う「鶏足原」と呼ばれる地名もある。笠置山墳丘墓が鳥形をしていると言う事も、このあたりと関係しているのかもしれない。そういえば、笠置山墳丘墓がある場所の住所は、瓜生野柏田である。柏は、言うまでも無く黄鶏(カシワ)から転化した物と考えていいだろう。すると柏田と言う地名は、天照大神の田んぼから派生したとも考えられる。その田んぼの真ん中を、五十鈴川が流れているのだ。

 更に、近くには伊勢の神明宮があり、天の磐戸開きの伝説の残る磐戸神社がある。まるで記紀神話に出てくる伊勢とは、現在の伊勢ではなく本当は日向の中に在ったのではないだろうかとさえ思えるのだ。実は記紀神話の中には、日向の話の中に唐突に伊勢の話が出てくる場面があリ、長い間、疑問となってきた。

 ニニギノ命を先導し、アメノウズメノ命と共に天孫降臨したサルタヒコ神の死ぬ場面である。それまで、日向の話だったのにサルタヒコ神は、伊勢の五十鈴川で溺れ死んだ事になっているのだ。サルタヒコが溺れ死んだ伊勢の五十鈴川とは、三重県の伊勢ではなく、実際、この付近で起こったエピソードに基づいて書かれていると考える事も、決して荒唐無稽な話ではないだろう。

 いずれにしろ日高氏の研究からハッキリした事は、笠置山墳丘墓を中心とした瓜生野・上北方周辺は、3世紀頃既に国と呼べる規模で繁栄しており、もっとも古い日向の国の中心地であったと言う事だ

パート3に続く

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